石見銀山とは
島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山です。最盛期には、日本は世界の銀の3分の1を産出したとも言われていますが、その中でも大半を石見銀山が占めていたと言われています。
2007年6月に世界文化遺産として登録されました。その後、保全体制の整備などを進めた結果、2010年に登録範囲が軽微に拡大されました。
登録基準の具体的内容
「石見銀山とその文化的景観」は、世界遺産の登録基準ⅱ、ⅲ、ⅴを満たしています。
登録基準ⅱ
石見銀山が開発された16世紀から17世紀初頭、石見銀山で生産される大量の銀は、その銀が流通することで、東アジアだけでなく、ヨーロッパを含む各国と日本の間に経済的、文化的交流を生み出しました。
登録基準ⅲ
石見銀山では16世紀に東アジアの「灰吹法」と呼ばれる製錬技術の導入で、良質で大量の銀生産が可能になりました。採掘から精錬に至る各工程で小規模な労働集約型の作業を取り入れ日本独自とも言える優れた運営形態が発展しました。
600もの「間歩」と呼ばれる小規模な手彫りの坑道などはその具体例です。
江戸時代に鎖国と呼ばれる対外政策をとっていた日本はヨーロッパの産業革命で発展した新技術の導入が遅れ、従来の鉱山開発に関わる伝統的技術が残りました。
そのため石見銀山では銀鉱石の枯渇に伴い鉱山活動を停止した後も大規模な採掘や開発は行われず、結果的に伝統的技術を示す遺跡が残されたのです。
登録基準ⅴ
石見銀山遺跡では鉱山や集落、役所など、銀鉱山に直接関わる「鉱山と鉱山町」、銀鉱石や物資を運搬する「街道」、そして物資の搬出入に必要な「港と港町」という形で、銀の生産から搬出に至る鉱山運営の全体像を示す一連の土地利用と社会基盤施設の遺跡が残ります。また豊富な遺跡群は銀鉱山に関する独特な土地利用を示す文化的景観を表しています。
ICOMOSの指摘と対応
ICOMOSは世界遺産登録に際して、登録基準ⅴに関する追加調査、証拠となる文書の提出を求めました。
大森・銀山
ICOMOSの指摘
景観という観点から街並みの背景となる両側の稜線から山裾までを本遺産の範囲に含めるべきでは(集落に関する遺産の完全性が不十分)。
対応
周囲の山腹に関しては景観としての一体性を有している範囲を2007年12月、重要伝統的建造物群保存地区に追加選定。
温泉津港
ICOMOSの指摘
最も繁栄した内港及び船着場も、鞆ヶ浦や沖泊と同様に遺産の範囲に加えるべきでは(港に関する遺産の完全性が不十分)。
対応
温泉津の内港及び船着き場については、2009年12月、重要伝統的建造物群保存地区に追加選定
鞆ヶ浦道・温泉津沖泊道
ICOMOSの指摘
街道の真正性については断片的ではないか。
対応
街道への改変が加えられていても、それがごく軽微で復元可能な部分については、2008年3月に史跡に追加指定。この結果、街道全体の73%の区間が遺産の範囲に。
遺産概要
「石見銀山遺跡とその文化的景観」は島根県の山あいにあります。
登録区間は
- 「間歩」と呼ばれる600ヶ所の坑道
- 渓谷を挟んで広がる鉱山街の伝統的家屋(代官所跡などの武家屋敷や熊谷家などの商家、羅漢寺などの寺社)
- 銀の精錬施設(清水谷精錬所跡など)
- 銀山を守る山城跡(石見城跡など)
- 銀や銀鉱石の積み出しが行われた2つの港(鞆ヶ浦港と沖泊港)
- 港町(温泉津)
- 銀山と港を結ぶ石見銀山街道
です。
また銀鉱山という経済的基盤をもとに形成された街であったことから、通常の城下町とは異なり、大森地区の町並みには武家屋敷、商人町屋、寺社などが混在しています。日本の推薦書には他の鉱山開発関係遺産との比較があり、石見銀山は前近代という鉱山開発時期や銀鉱山を中心とする銀産業のための周辺土地利用、鉱山街の景観、銀の積出港とそこに至る街道といった一連の登録形態において他に類を見ないとしています。
主な登録物件と特徴
銀山柵内
![清水精練所](https://whlibrary.net/wp-content/uploads/2022/10/清水精練所-1024x538.png)
採掘から選鉱・製錬・精錬まで銀生産の諸作業が行われた場所です。
龍源寺間歩、清水谷精錬所、石金遺跡、清水寺、唐人屋敷跡などがあります。
代官所跡
大森地区の北東側です。17世紀から19世紀、江戸幕府が役人を派遣し、石見銀山とその周辺の150あまりの村を支配していました。
石見城跡
標高153mの山にある、銀山北側の守備のための重要拠点です。近隣領主にとっても軍事的に重要な位置を占めた山城でした。
熊谷家住宅
大森・銀山の街路に面して建つ建築物の中で最大の町家建築です。重要文化財に指定されています。
羅漢寺五百羅漢
![石見銀山付近の羅漢寺五百羅漢](https://whlibrary.net/wp-content/uploads/2022/10/五百羅漢-1024x538.png)
銀山川支流沿いの信仰関連遺跡です。岩盤の斜面に3か所の石窟が作られ、中央に三尊仏、左右両窟に250体ずつの石造羅漢坐像があります。
石見銀山街道・温泉津沖泊道
全長約12㎞。温泉津、沖泊が頻繁に利用された16世紀後半に整備されました。比較的なだらかな起伏で、途中の西田で温泉津と沖泊に分かれます。
鞆ヶ浦
銀山柵内から北西に約6㎞。銀山開発の初期16世紀前半に、国際貿易港博多に銀鉱石や銀を積みだした港です。急傾斜地に形成された港湾集落の様相が全体としてよく保持されています。
沖泊
銀山柵内から西に約9㎞。毛利氏の支配を受けた16世紀後半の40年間、銀積み出しの拠点であり物資の補給地、毛利水軍の基地としても機能しました。鞆ヶ浦同様に16世紀の港湾と集落の土地利用の形態が良好に残っています。
温泉津
沖泊に隣接しています。沖泊の外港であり、銀山及び周辺地区支配のための政治的中心地でもありました。温泉地のため、戦国大名、文人墨客、代官なども逗留していました。木造建築群が江戸時代の町割りの中に良質に保存されています。温泉街では唯一「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されているのも特徴です。