百済歴史地域とは
百済歴史地域は、韓国の忠清南道と全羅北道にまたがる古代百済王国の遺跡群で、2015年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。この遺産は、百済の都が置かれた3つの主要エリア、すなわち公州(コンジュ)、扶余(プヨ)、益山(イクサン)の考古遺産で構成されており、百済王国の文化、芸術、宗教の中心地としての役割を物語っています。
登録基準
- 登録基準(ii) 「ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの」。百済は中国や日本との文化的交流を通じて独自の文化と技術を発展させ、その影響は東アジア広範囲に及びました。
- 登録基準(iii) 「現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠」。百済の建築、仏教遺跡、墳墓などは、当時の社会と文化を色濃く反映しており、その伝統は古代東アジアの文化形成に大きく寄与しました。
遺産の価値
- 東アジア文化の交流 この地域には、王宮跡、仏教寺院、古墳など多様な遺跡が残されています。特に公州の武寧王陵や益山の弥勒寺跡は、中国南朝や日本との活発な交流を示す重要な証拠です。
- 百済文化の精華 百済は、洗練された芸術と仏教文化で知られ、その影響は広範囲に及びました。特に、仏教文化の伝播と発展において重要な役割を果たし、日本にも大きな影響を与えました。
主な構成資産
| 地域 | 構成資産 | 特徴 |
|---|---|---|
| 公州 | 公山城、武寧王陵と宋山里古墳群 | 百済の熊津遷都期(475-538年)の中心地。王墓からは豪華な副葬品が出土。 |
| 扶余 | 官北里遺跡と扶蘇山城、定林寺跡、陵山里古墳群、羅城 | 百済の泗沘遷都期(538-660年)の中心地。整然とした都城計画が見られる。 |
| 益山 | 王宮里遺跡、弥勒寺跡 | 百済末期の副都、または遷都計画地。東アジア最大級の仏教寺院跡が残る。 |