富岡製糸場と絹産業遺産群

富岡製糸場と絹産業遺産群

               
国名 日本
世界遺産の名称 富岡製糸場と絹産業遺産群
遺産の種類 文化遺産
登録年 2013
拡張・範囲変更
登録基準 (ⅱ), (ⅳ)
備考

富岡製糸場と絹産業遺産群とは

富岡製糸場正面

富岡製糸場は、群馬県富岡市の「富岡製糸場」、伊勢崎市、藤岡市、下仁田町に点在する養蚕関連の史跡によって構成される世界文化遺産です。

2014年6月にドーハで開催された第38回世界遺産委員会で世界遺産として登録されました。

現在の群馬県一帯は古くから養蚕業が盛んで、地域に根づいた職業でした。西欧の技術を取り入れることで良質な生糸を生産可能となり、それを海外に輸出するようになったのです。

日本産の生糸は世界でも高い評価を受けていました。

日本が開発した生糸の大量生産技術は、かつて一部の特権階級のものであった絹を世界中の人々に広め、その生活や文化をさらに豊かなものへと変化させました。

登録基準の具体的内容

富岡製糸場と絹産業遺産群は、世界遺産の登録基準ⅱ、ⅳを認められています。

登録基準ⅱ

高品質生糸の大量生産をめぐる日本と世界の相互交流を示していることが普遍的価値を持っていると評価されています。

明治政府によって高品質生糸を大量生産するために近代西欧技術の導入が進められ、その結果として富岡製糸場をはじめとして日本国内での養蚕・製糸技術改良が進みました。

また、それによって高度な技術力を持った日本は、その技術を海外移転することで世界の絹産業の発展にも貢献しました。

登録基準ⅳ

世界の絹産業の発展に重要な役割を果たした技術革新の主要舞台であることに顕著な普遍的価値が認められています。

富岡製糸場は器械製糸から自動繰糸機まで製糸技術の発達を伝える施設です。この富岡製糸場から、革新的な養蚕技術の開発が行われ、そしてその技術が世界的に普及していくこととなった歴史を伝える建築物・工作物の代表例なのです。

遺産の概要

富岡製糸場は1872年(明治5年)に明治政府が製糸業の近代化を図るために設立した官営模範工場で、木骨煉瓦造の特色ある当初の建造物群が140年以上経った現在もほぼ建設当初のまま保存されています。民間に払い下げられたあと、主要な建造物群はそのまま活用され、製糸技術の革新に伴い必要な増改築を行いながら115年間生産活動を続けました。1987年の操業停止後、2005年に富岡市の所有管理となり、敷地全体が国史跡に、2006年に設立当初の9件の建造物が国重要文化財に指定されました。

2014年6月に世界遺産登録され、同年12月には東西の置繭所と繰糸所が国宝に指定されました。

富岡製糸場の設立には渋沢栄一や尾高惇忠、韮塚直次郎などが尽力しました。

富岡製糸場が果たした役割

富岡製糸場内部の繰糸器械

富岡製糸場は官営模範工場として日本各地に器械製糸技術を伝え、器械製糸場の設立を進める役割を果たしました。富岡製糸場で生産された生糸は当初はフランスへ、やがてアメリカへと輸出されました。明治末期には日本の生糸の生産量・輸出量はともに世界一になり、世界的な絹の大衆化に貢献したと考えられています。

設立の背景

江戸時代末期に幕府は鎖国を解き外国と交易を開始し、1859年(安政6年)に横浜などを開港しました。その当時、主な輸出品として生糸と蚕種の需要が急激に高まりましたが、その頃の日本は伝統的な手動の繰糸法である座繰製糸出会ったため、良質で質の揃った生糸を大量生産できず、また、粗悪品や偽物を輸出して不当な利益を得ようとする商人が増えて問題となりました。

このような問題に対し諸外国から強い不満が出され、さらに外国資本導入の動きもありました。こうした問題を解決する目的で国の資本による模範器械製糸場の設立が1870年2月に決定されました。

建設地の選定

政府は生糸に精通したフランス人ポール・ブリュナに製糸場建設のための見込書を提出させ、彼を指導者として仮契約を結びました。ブリュナらは当時養蚕が盛んであった長野、群馬、埼玉の各地を実地踏査した結果、製糸に必要な繭と良質な水だけでなく、工場建設に必要な広い土地、近くで蒸気エンジン用ボイラーの燃料である石炭(亜炭)が確保できたことなどから、群馬県富岡を選定したのです。

建築資材は、日本で調達できない一部の資材以外は近辺で調達されました。木材や礎石は近隣の官林や山から切り出し、煉瓦はフランス人技術者の指導のもと瓦職人が隣町で作りました。

一方、日本人の体格に合わせた300人取りの繰糸器械や動力用の蒸気エンジン、窓ガラスや鉄製の窓枠などはフランスから輸入しました。

設立に関わった人々

器械製糸場設立の緊急性を感じた大隈重信、伊藤博文の協議により官営模範製糸場設立が決まりました。当初は民部省が所管し、渋沢栄一や杉浦譲、尾高惇忠などが担当し、中心的役割を果たしました。

設立の指導者としてポール・ブリュナと雇入れの本契約を結び、また建物の設計のために横須賀製鉄所の製図工だったオーギュスト・バスティアンを雇入れました。その他にブリュナの人選によってフランス人の生糸検査人、技術者、繰糸教師、医師らが雇入れられ、富岡製糸場の設立や操業に関わりました。

活躍した工女たち

1872年2月より工女募集が行われましたが、「フランス人が工女の生き血を採って飲む」という噂が流れるなどしたため、順調に集まりませんでした。政府は「告諭書」を何度も出すとともに、初代場長の尾高惇忠が娘の勇を率先して入場させた結果、32道府県から工女が集まりました。

官営当初期の富岡製糸場で働く工女の生活は、労働時間は季節により異なるものの、1日平均7時間45分で日曜は休み、給料は繰糸技術の等級により格付けされた月給制、また宿舎や病院が場内にあり、食費や医療費は国が負担するなど、当時の日本では先進的な労働環境でした。工女の中には、技術習得後は故郷に戻り指導者として活躍する者もおり、器械製糸技術の伝播に貢献しました。

建物の特徴と価値

富岡製糸場内部

官営当初期に建設された主な建物は、木材で骨組みを造り、壁面の仕上げに煉瓦を用いる木骨煉瓦造で建てられています。小屋組みにはトラス構造が用いられており、繰糸所には中央に柱のない大空間が出現しています。また、当時の日本はまだ照明設備が不十分であったため繰糸所にはガラス窓を多用することで自然光を最大限に利用しました。明治初期に作られた木骨煉瓦造建築で大規模なものとしては、日本で唯一完全な形で残るものです。

構成資産の一覧と概要

富岡製糸場

明治5年に明治政府が設立した官営の器械製糸場です。

製糸技術開発の生産端として国内養蚕・製糸業を世界一の水準に牽引しました。

田島弥平旧宅

通風を重視した解雇の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平が、1863年(文久3年)に立てた主屋兼蚕室です。瓦葺き総二階建てで換気のための越屋根を備えた構造は、近代養蚕農家の原型になりました。

高山社跡

高山長五郎は、通風と温度管理を調和させた「清温育」という蚕の飼育法を確立しました。

この地に設立された養蚕教育機関高山社は、その技術を全国及び海外に広め、「清温育」は日本の標準養蚕法になったのです。

荒船風穴

岩の隙間から吹き出す冷風を利用した国内最大規模の蚕種貯蔵施設です。冷蔵技術を活かし、当時年1回だった養蚕を複数回可能にし、繭の増産に貢献しました。

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