古代都市テーベと墓地遺跡とは
古代都市テーベと墓地遺跡はエジプト新王国時代の遺跡群です。エジプトの首都カイロの南約670km、ナイル川中流域に位置します。
1979年に世界文化遺産に登録されました。
登録基準の具体的内容
世界遺産の登録基準ⅰ、ⅲ、ⅵを満たしています。
遺産の概要
テーベが初めてエジプトの都となったのは、中王国時代(紀元前2020ごろ〜前1793年ごろ)の第11王朝のときのことでした。次の第12王朝の時代にはアメン神をまつるカルナック神殿の造営が始まりますが、その後アジア系の遊牧民ヒクソスが侵入してエジプト全土を支配しました。
しかし新王国時代最初の王朝、第18王朝の創始者であるテーベ出身のアフメス1世がヒクソスを完全に駆逐します。これ以降、テーベの地方神にすぎなかったアメン神は、エジプト全上の主神として信仰されるようになっていきます。
第18王朝3代ロファラオのトトメス1世による治世下の紀元前1520年ごろ、ナイル川西岸に王族の墓所「王家の谷」がつくられはじめ、トトメス1世の王女で5代目ファラオのハトシエプスト女王は壮大な葬祭殿を造営します。6代目ファラオのトトメス3世の時代にはエジプトの版図はユーフラテス川にまで拡大し、貿易による莫大な富がもたらされました。そして、9代目ファラオのアメンヘテプ3世はカルナック神殿の副神殿となるルクソール神殿を建造しました。
その後、一度エジプトの都はテーベからアマルナに移されるが、紀元前1350年ごろ、12代目ファラオのツタンカーメンによって再びテーベに遷都された。この第18王朝期を通じて、ファラオたちは周辺国を次々と制圧し、エジプトの領土を拡大し続けました。テーベの繁栄ぶりは、ホメロスが叙事詩『イリアス』のなかで「100の塔門をもつ都」とたたえているほどです。しかし、新王国時代が終焉を迎えると、テーベも徐々に衰退していきます。アメン・ラー信仰の中心地ではあり続けましたが、紀元前7世紀、アッシリアの侵攻を受けてテーベは陥落し、街は焼き払われました。現在のルクソール市とその近郊にあるテーベの遺跡群は、ナイル川東岸の神殿群と、西岸山地の死者の都(ネクロポリス)と呼ばれる墓地遺跡群に大別できます。また、巨大な富をもった王は、墓所とは別に壮大な葬祭殿を築いたため、その遺跡も残っているのが特徴です。いずれもほとんどが破壊や盗掘に遭ってはいるものの、およそ1,000年にわたって古代エジプト王国の首都として栄えたテーベの遺跡群は、新王国時代絶頂期の繁栄の様子と、人々の生活、建築技術の高さを今に伝える貴重な遺産となっています。
テーベにある主な遺跡
カルナック神殿
ルクソールの外れにある、テーベ神殿群の中心的存在です。古代エジプトの神殿では最大規模を誇ります。アメン・ラー神、コンス神、ムト神、メンチュ神などをまつったいくつかの神殿から構成されますが、最大のアメン・ラー大神殿を指してカルナック神殿とすることも多いです。およそ5,000㎡の大列柱広間は、第19王朝期、ラメセス2世のときに完成しました。
ルクソール神殿
アメンヘテプ3世とラメセス2世によって建てられたカルナク神殿の副神殿です。かつてカルナック神殿とは参道で結ばれており、その両側に置かれた人頭の怪物スフィンクスが一部残されています。神殿は、ラメセス2世が建てた高さ約25mのオベリスク、ラメセス2世の中庭、大列柱廊、アメンヘテプ3世の中庭などの建造物から構成されています。
王家の谷
ナイル川西側の岩山にある王家の墓所です。第18王朝トトメス1世の代から第20王朝ラメセス11世までが眠っています。新王国時代の王は、ピラミッドではなく岩窟墓所を築きました。ここからは60もの墓が発見されていますが、とくに有名なのは1922年にイギリス人のハワード・カーターによって発見されたツタンカーメンの墓です。
王妃の谷
王家の谷の南西にある墓地遺跡群を指します。第17王朝から第20王朝までの王子や王女、ラメセス2世の王妃であるネフェルトイリもここに眠っています。
ラメセス2世葬祭殿
王家の谷からナイル川に少し寄った場所にある、ラメセス2世の葬祭殿です。花崗岩でつくられた8tもある巨大な彫像などが置かれています。
ハトシェプスト女王葬祭殿
王家の谷の東にある、ハトシェプスト女王が築いた葬祭殿です。近代建築物に通じる意匠をもつ葬祭殿には、美しい彩色レリーフがあります。